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『MGSV』のストーリーをどう読み解くべきか識者に訊く[vol.2]

●『MGSV』は果たして未完なのか?

──ネットを中心に、「『MGSV』は未完ではないのか」という話が広まりましたが、矢野さんはどのように感じられましたか?

矢野 これにはふたつの段階があったと思います。まず、発売から少し経って、第2章までクリアーしたプレイヤーの一部が「何だよ、今回のスネークはBIGBOSSじゃないのかよ」という反応をした。『MGS2』のときにも同じ反応がありましたよね(笑)。雷電という新しい主人公を受け止められず、ものすごく怒っている人がいた。でも、いまでは『MGS2』は大傑作ということになっている。今回は、プレイ時間も『MGS2』と比べてかなり長いので、その“グレードアップ版”のような感じですよね。

──この時点では、未完というより、スネークに対する不満が吹き出たというか。

矢野 そうですね。その後、特典ディスクに収録されていた幻のエピソード51“蝿の王国”の映像がネット上で拡散して、「なぜこれを入れなかったんだ?」という反応に変わった。つまり、イーライとの決着がつかなかったことが未完と言われる理由なのでしょうが、僕は“蝿の王国”なんてなくてもいいと思うんです。

──それは関係ないと?

矢野 直接的な原因ではないと思っています。プレイヤーはエピソード46“世界を売った男の真実”までスネークの気持ちで物語を進めてきて、いきなりハシゴを外されてしまった感じですよね。あなたがBIGBOSSだったんだよ、と。そうなると、マザーベースでの大虐殺やクワイエットの消失、ヒューイの追放もみずからが加担した、自分の物語として映る。その行き場のない不安や混乱のはけ口が、すべて“蝿の王国”に向かってしまったのではないかと。これは、じつは小島監督の思うつぼですよね。

──悪に堕ちたスネークを第三者として見るのではなく、プレイヤーをBIGBOSSにするわけですから、「そんなの重すぎる」という拒絶反応にも近いのでしょうか。

矢野 そうだと思います。「仲間をたくさん殺して、スネークって悪いヤツだなあ」とプレイヤーに思わせるのでは、小島監督はきっと満足しない。小島監督は、『MGSV』で「スネークをプレイヤーに返す」と言っていますが、おそらくこういうことなのではないかなと。

──そう考えると、エピソード43“死してなおも輝く”の描写は、かなりキツいですよね。

矢野 よくあんなことをプレイヤーにさせますよね(苦笑)。正直、プレイヤーはイヤな気持ちになりますけど、エンターテインメントって人の感情を動かすのが最大の目的で、動かすことができる作品でなければならない、という信念を小島監督は持っていますから、ここまでやらせるのでしょう。それは『MGS3』のザ・ボスとのラストシーンとも重なります。

──『MGSV』で小島監督はスネークをプレイヤーに返し、これで『メタルギア』サーガは終わりなのでしょうか?

矢野 商品としての、物理的存在としての『メタルギア』は終わりでしょう。でも、そうではないんです。『白鯨』の冒頭で、語り手のイシュメールは、エイハブ船長の物語を、運命の三女神が用意した出し物(舞台)だと宣言しています。舞台監督たるアトロポス、クローソー、ラキシスの三女神が自分のことを語り手などという“冴えない役回り”にしたのだと、イシュメールは嘆いてみせる。けれど、メルヴィルは小説の最後で、イシュメールにとびきりの役を用意します。ピークォドの多くの人間が死に、エイハブも死んだ後、「エイハブのボートにおけるその漕ぎ手の後釜にすわるべく運命によって予定させられていたのが、ほかならぬわたしであった」と言わせています。

──BIGBOSS(ファントム)が死んだ後、語り部たるイシュメールがBIGBOSSになる……。

矢野 そうです、『MGSV』においてはイシュメールはBIGBOSSになるという解釈も可能です。でも、やはりイシュメールは語り手でもあるわけです。世界が終わった後でも、まだ語ろうとする意志、不可能を生きる意志。イシュメールの存在こそが、絶滅した世界でも物語が可能であるということを示しています。これに通じるエピソードを、私たちはすでに知っています。『MGS2』のラストでのスネークの名ゼリフです。「伝えるために生きる。俺たちは伝えなければならない。俺たちの愚かで、せつない歴史を。それらを伝えるためにデジタルという魔法がある。人間が滅びようと、次の種がこの地球に生まれようと、この星が滅びようと……生命の残り香を後世に伝える必要がある。未来を創ることと、過去を語り伝えることは同じなんだ」

──エピソード46のラストシーンは、まさに語り手として、物語の中のスネークにだけではなく、プレイヤーにもメッセージを送っていますよね。「これからはお前がBIGBOSSだ」というセリフは、その象徴ではないかと。

矢野 少し脱線しますが、『MGSV』の終わっていない感じ、未消化な感じは、じつは『白鯨』にも現れているんです。エイハブ船長は、モビー・ディックに挑みますが、じつにあっさりと海に放り出されていなくなってしまう。クライマックスで盛り上がるべき宿敵とのバトルなど描かれません。でも、多くの人はエイハブは死闘の末に死んだというイメージを持っている。

──小説では具体的な最期は言及されていないのですね。

矢野 このイメージを定着させたのは、あのレイ・ブラッドベリが脚本を書き、ジョン・ヒューストンが監督をしたグレゴリー・ペック主演の映画『白鯨』(1956年)の影響が大きいという説があります。ブラッドベリは、原作でモビー・ディックと死闘を演じる拝火教徒のフェダラーの役目を、エイハブに演じさせるという脚色をしました。映画によって改変された死闘を演じるエイハブの姿こそ、英雄にふさわしい。このイメージが、アメリカの正義を代行する英雄としてのエイハブ像をつくることに関連しているに違いないんです。『MGS』ではおなじみですが、語り伝えられることで英雄のイメージは変形していく、ということが『白鯨』のエイハブにも起きている。

──英雄がどんどん都合よく偶像化されていく……。

矢野 スネークはいつも、伝説の英雄として語られることを拒否します。『MGSV』でプレイヤーをスネークにしたのは、“語られる英雄”ではなく、“英雄そのもの”に、プレイヤーひとりひとりが、それぞれの方法でBIGBOSSになるためだったんです。それは、ブラッドベリが脚色したエイハブの像を、オリジナルに戻す行為にも見えます。

──なるほど。そこはストーリーとして語るのではなく、プレイヤーが体験しなければならない。

矢野 『MGSV』の後の『メタルギア』の世界では、エイハブはソリッド・スネークに殺されます。でも、イシュメールたるBIGBOSSは生き残る。絶滅しそうな世界で、『メタルギア』で起きる事件はいつも世界を崖っぷちまで追い詰めます。BIGBOSSを生き延びさせ、世界を持続させたのは、『MGSV』におけるエイハブ=プレイヤーなんです。

──シリーズの円環をつなぐのは、じつはプレイヤー自身だったという、ものすごい仕掛けですよね。小島監督が完成報告映像で「ファンの方には喜んでもらえると思う」としきりに話されていたのを思い出します。

矢野 BIGBOSSをイシュメール=語り手にし、プレイヤーをエイハブ=もうひとりのBIGBOSSにしたのは、終わる世界、終わらざるをえない『メタルギア』サーガをプレイヤーに救ってもらうという、最大のミッションを実行してもらうためだったからです。あちらのゲームの世界では、ソリッド・スネークに殺されるエイハブは、こちらの現実の世界では生きている。だってそれは、プレイした我々ですから。こちらの世界には数え切れないほどのBIGBOSSがいる。

──『メタルギア』はこれで終わりだけれども、終わらない。そういうことなのですね。

矢野 我々はBIGBOSSになっていいんだ。ひとりひとりが誇りをもって、世界を救っていいんだ。こちらの世界で、それをやろうぜ。それが、小島監督が用意してくれた『MGSV』であり“空白”なんだと思います。