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関係性は絶望じゃない――劇場版『Gのレコンギスタ』完結記念 富野由悠季ロングインタビュー

8月5日から公開開始した劇場版『Gのレコンギスタ V』「死線を越えて」をもって、’19年より全5部作としてスタートした『G-レコ』の壮大な劇場映画化がフィナーレを迎えた。原作・脚本・総監督を務めた富野由悠季に、完結を記念したロングインタビューを敢行。今の思いを率直に語り明かしてもらった。『G-レコ』の総括から次回作の構想まで、1万字超のインタビューをご堪能あれ! 
 

関係性は絶望じゃない――劇場版『Gのレコンギスタ』完結記念 富野由悠季ロングインタビュー
関係性は絶望じゃない――劇場版『Gのレコンギスタ』完結記念 富野由悠季ロングインタビュー

――劇場版『Gのレコンギスタ Ⅳ』「激闘に叫ぶ愛」オープニング開けの冒頭シーンは、TVシリーズでも印象的だった宇宙でのランニングからスタートでした。ここから映画を始めようと考えたのには、どのような思いがあったのでしょう? 
富野 思いなんてありません。
――狙いは? 
富野 狙いなんて見ればわかるでしょう!と言いたい(笑)。それをわざわざ説明させようとしているのは、ズルいんじゃなくて?
――失礼しました。監督は『Gのレコンギスタ』(以下、『G-レコ』)という作品で、一貫して宇宙空間での身体性を描かれていますよね。それがまさに象徴的に現われているシーンであるかなと。
富野 そういうこと。わかってるじゃない。わかっていることを、わざわざ説明する気になるか?(笑)
――あらためて、申し訳ありません(笑)。
富野 へへへ(笑)。はい、次の質問をどうぞ。
 

劇場版『Gのレコンギスタ』より
劇場版『Gのレコンギスタ』より(C)創通・サンライズ

――そのシーンの話をもう少し続けさせてください。絵コンテには、そのシーンでの女性の胸の揺れに対して、細やかな指示が書き込まれています。
富野 その記憶は全くない。全くないのは当たり前で、あのコンテを描いたの、何年前だか知ってる? 
――5年前ですね。
富野 覚えてるわけないじゃないか(笑)。
――書き込まれていらっしゃいましたよ。
富野 そうなの? でも、それよりもむしろ、出来上がった画面について知って欲しいところがある。あの一連のシーンを担当したアニメーターは本当に上手にやってくれていて、胸の揺れだけじゃなく、上半身の身体表現そのものが上手い。本人は克明にやっているつもりじゃないと思うの。でも、実に身体というものの感覚がよく出ていて、上手いというしかない。ああいう風に動画にしてくれたことに深く感謝しています。……なぜあのシーンから始めたのかと問われてもね、そういう答え方しかできないんです。
――どういうことでしょう? 
富野 TV版を映画版に編集しているわけだから、切り込もうと思えばいくらでも切り込めるはずなんだけど、あの一連のシーンは切れないんですよ。そのくらい作画がしっかりしていた。「こうでいいんだ」とでもいうように。ちゃんとおへそまで描いてある。身体性の問題が物語全体を支えている部分があるので、ああいう作画をしてほしかったんです。あのシーンのよさは絵コンテの責任じゃなくて、アニメーターがその上をいってしまったから。この作品のそういうことの、象徴的なシーンですね。
――監督の想像以上のものだったんですか。
富野 「劇」というのは役者……僕としては「役者」と呼びたくなってしまうのだけれど、あなたたちに合わせるなら「キャラクター」。キャラクターの身体性、肉体性が見えると、あとは勝手にやってくれ!となるんです。そこが見えていると、僕の方では「劇」に集中して進められる。その意味で、この作品でのアニメーターたちの仕事は、嬉しかったですね。
――ランニング後のシャワーシーンでちらりと見える裸体も印象的です。
富野 あそこも絶句するほど、上手いというしかない作画でした。オジサンの裸体が他人の目にはどう見えるかを、きちんと解説してもらった気分があるんですよ。あの後ろ姿があると、それ以降オジサン……ドニエルさんがしょっちゅう怒鳴っているだけであっても、どこか安心して見られる。ドニエルに関してはもうひとつ、座っているブリッジのシートに、おネエちゃんがプリントされているところも身体性の表現としてリンクしている……あっ! その顔は覚えてないな! 
 

劇場版『Gのレコンギスタ』より
劇場版『Gのレコンギスタ』より(C)創通・サンライズ

――いやいや、覚えています。ただ、どうリンクしているかは上手く言語化できません。
富野 何を言ってるの! シートを見れば、ドニエルはああいうオジサンなのに裸のおネエちゃんが大好きなことがわかる。そんなオジサンが、直前のシャワーではチビな若い娘に怒鳴りつけられてもいる。人の暮らしって、そんなものでしょう?と見せているわけ。シートの絵はもともと、宇宙に行くときには一か月、二か月と狭いブリッジに居続けなければならない、そのフラストレーションをどう晴らすのか? 退屈なブリッジで何をお楽しみにしたらいいのか?と一週間くらい考えた結果、思いついたアイデアだったんです。ただし、おネエちゃんを置く上では絶対条件がありました。
――なんですか?
富野 「走っている絵でなければいけない」……つまり、魅せるヌードは駄目だ、と。エロチックに一切行かない、媚びていない走りの資料を探すだけで2、3日かかりました(笑)。で、探してポンとブリッジに入れてみたら、「人がいていいなあ」って感じたんです。逆にいうと女性のヌードというのは、実はそういう作用があるものなんです。男の子にしても女の子にしても、生まれてしばらくはお母ちゃんと一緒にお風呂入っていたでしょ? そのとき、お母ちゃんの裸を見て何を思っていたんだよ。ただの母ちゃんでしょ?と。その感覚に繋げたんです。
――セクシャルなものではない、生命力の表現としての裸ということですか? 
富野 一番重要なのは連続性です。人というのは、親子という連続性がずっとあることで続いて来ている。リアルな戦場の写真を見ると、ヌード写真を置いてあるのは珍しくない。あれがなんなのかをもうちょっと考えていくと、親子の連続性に突き当たります。「人として何かを維持する」という努力の連続性が見えないところにいると、人間はきっと不安になるんですよ。だから今回の『G-レコ』で描いたレベルの宇宙で生活している人を示すために、その不安から逃れるために、人の連続性を絶えず意識させるものを画面に置くことを設定していったのです。
――連続性がないと不安というのは、まさに今作で描かれる「レコンギスタ」……人間が宇宙から地球に帰還したがる気持ちに基づく活動と繋がりますね。人間の生命の連続性といいますか。
富野 全くその通りです。それには不安もだし、規模の問題もある。人工衛星の規模……人が暮らしていける空間の広さはどのくらいかを考えたとき、『ガンダム』ではスペース・コロニーというものを描いてみせたけど、あれは嘘八百の設定なんです。あんな規模では、人が生きるのは無理がある。最終的にこの作品では、「シラノ-5」みたいな居住用の構造物も登場させて、「このくらいチマチマとやらなければ宇宙空間では暮らしていけないんだ」と示してもみたけれど、あれはつまり無理だということですよ。宇宙では人が暮らしていけないんだとアピールするための作品が、『G-レコ』だった。宇宙開発を信じている政治家と、経済人と、宇宙開発大好き人間に対して、「それ、そろそろやめたら?」って話をしたかったわけです(笑)。
――宇宙開発は現在、絵コンテが完成した5年前よりもさらに現実味を増した印象です。国も民間も、真剣に宇宙での権利を考えて行動しています。さすがの予見性ですが、監督の想像したよくない方向性に事態は進んでいますか?
富野 まだあと5、60年はこの風潮が続いてしまうでしょう。だから『G-レコ』の作品評価は、表向きは「50年後にはわかる」と言ってるんだけど、本当は100年くらいしないとわかってくれないなって思っています。だけど50年はさておき、100年作品が残るかあまり自信がないんで、一応控えている、謙虚な老人を演じているつもりでいるんです……って、今言っちゃったから隠せてないなあ……(笑)。
――記事にも残させていただければ……(笑)。 端的にビジュアルに現われたセクシャリティ、そこに現われた身体性の話をうかがいましたが、劇場版ではベルリを取り巻く女性たちの描き方もより濃厚になったように感じました。身体接触のシーンが増え、感情的な交流も増している。恋愛という意味でのセクシャリティとでも言えばいいのか……。
富野 そういう言葉遣いをするとちょっと違うなと思いますね。単純に富野の作品にはドラマラインが薄い部分があって、それを補強しただけかもしれないんです。それはストレートに「セクシャリティ」という問題系に繋がっているとは思っていませんし、そうもしていないはずです。
――ズレた解釈でしたか。
富野 ただ、生き死にの問題を描くと、どうしてもセクシャリティに行き着く感覚は、端的にありますね。それは「Ⅳ」ではまだ希薄で、「Ⅴ」は間違いなくその部分が端的に表れていると思っています。生き死にに隣接している人の生命観は、セクシャリティに表れるんじゃないかとは思っています。それの行き着く先は、ジット団のクン・スーンの妊娠です。あれは絵コンテを描く段階ではあまり予定していなかったんです。でも『G-レコ』5部作を大きな話としてとらえて、そのエンディングを撮っていくときに、作らざるをえなくなった。それは「人の関係ってこうだろう、そして、それは決して絶望ではない」と見せるために必要なものだったんです。あそこのセリフを思いついたとき、僕は『G-レコ』を作ってよかったなって、すごく思えた瞬間でした。
 

劇場版『Gのレコンギスタ』より
劇場版『Gのレコンギスタ』より(C)創通・サンライズ

――そんなに大きな意味合いの! 
富野 それは連続性というのも含めて、「地球に帰還しえた人はこうなる」と描けたからでもあるし、もうひとつ、クン・スーンが選ばれた人になっていること、が描けたからでもあります。宇宙生活者を全部地球に帰還させられればいいのに、そこまではあのラストではたどり着けていない……つまり『G-レコ』という物語は、本当の意味でハッピーエンドになっていないんです。それがあのシーンのことをこうやってしゃべることによって示せるという意味でも、やはりクン・スーンにキア・ムベッキの子を妊娠させたのは間違いなかった。あのシーンを作ったことで、それなりに作品をまとめあげられたな、と考えています。僕はアイーダとベルリのような人を、主役として使えるだけの能力を持っている作者じゃなかったんだよね。その点は反省しています。
――そうおっしゃいますが、ノレドの扱いが劇場版で変わったことによって、ベルリは主役としての力を増していたような気がしましたが? 
富野 それは全然違います。ノレドの扱いは、一切合切触っていません。TV版のままですよ。ままだからこそ、最後にベルリがノレドを取るという方法をやらざるを得なかったんです。劇場版にはドリカム(DREAMS COME TRUE)のテーマソング(「G」)があるわけだから、それに対応させたものを作らなければ、ドリカムにナメられる! ナメられるならまだしも、曲を書いた中村正人に絶対にバカにされる! ……そう思ったので、なんとしても劇伴として使いこなしてみせねばならないと覚悟していました。その「ナメてもらっちゃ困る!」という気持ちが、あのラストシーンに繋がったんです。物語の本線に戻していて、その結果として、「これはベルリとノレドの話でしょ」ってところに落としているだけです。
――監督としてはあの「V」のラストは、違う描き方もありえた? 
富野 出来上がったからこうやってしゃべれるんだけど、一時期、制作進行と揉めました(笑)。何人かの意見を入れた上での総合的な回答があれです。ゴビ砂漠に行くところまではよかったんだけど、ゴビ砂漠で真っ先にベルリが出会う、砂漠のガイドツアーを出そうと考えていたんです。ガイドツアーがいて、何人かのお客さんを案内してゴビ砂漠に来ているところにベルリが合流して……と。なんでガイドツアーなのかというと、その役で吉田美和さん(※DREAMS COME TRUEのボーカル、「G」の作詞も担当)が出演してくれると嬉しいというスケベ根性があったわけ。でもそれをまわりに言ったら、「それはダメでしょ」と返されて……。
――大型新人声優「井荻翼」さんの次に、吉田美和さんが続く流れを考えておられたんですね。
富野 そう。「吉田さんのあとにノレドを出すんじゃダメなの?」って言ったら、「ダメ!」ってみんなからくそみそに言われてさ……(笑)。そうした思案もあって、揺れ幅があった上で、ノレドとベルリに集約していったから、自分としては「こんな簡単なルートにするのは、便利すぎないか?」という気持ちがあった。だって、地球で再会できたといっても、どう考えてもベルリはGPS付きの何かを持ったりしているわけだし、追いかけてきたノレドはそんなものは使いこなしているでしょうよ。20年前……いや、50年前の作品なら話が別かもしれないけど、今の時代だって、合流しようと思ったらできるよね! それで盛り上がるの?と僕は思った。でもまわりは、「できるんだから、いいんですよ!」ってね。
――まわりの方の気持ちもわかりますよ。ケータイの普及ですれ違いがなくなったように、技術の発展によってドラマが失われるみたいな話もありますけれど、再会がむしろしやすくなったことによるドラマをあそこには感じました。
富野 今回に限ってはまさにそうなんでしょう。あそこに限らず、技術ありきの部分も暗黙の内に描いている部分があって、ちょっと便利すぎねえか?って気がしないでもないけど、まあ、そうやって技術が可能にしていることもある。それが『G-レコ』の場合にはとても大事な要素になっていると理解もできたので、その意味でまわりの提案を認めました。
――技術というものといかに人間が付き合っていくのかは、今作の大きなテーマですものね。科学技術のお話になったので、このまま続けさせていただくと、4作目のハイライトに当たるシーンのひとつが、G-セルフのフォトン・トルピードのシーンです。TVシリーズ以上に映像的に盛られた、非常に美しくも恐ろしいシーンでした。監督の作品はあのように強大な兵器が発動すると、戦況はもちろん、人の意識すらも大きく変えてしまう描写があると思うんですね。
 

劇場版『Gのレコンギスタ』より
劇場版『Gのレコンギスタ』より(C)創通・サンライズ

富野 『G-レコ』のそうした技術論はかなり他人事に捉えている部分があって、しょうがなく使っているので、ドラマの本線に響かない扱いにしていますね。根本的に僕が巨大メカの性能論に関して興味がなくなっている部分があるんです。ところが、なんでそういうものを描くのか。第5部に出てくるG-セルフの新能力も、ドラマの本線に関係してないのよね。だけれども使われている。
――なぜですか?
富野 どうしてかというと、この作品は「ガンダム」ではない、「ガンダム」離れをしていると僕はいうけれど、結局モビルスーツもどきが出てきて、それがドッキングしたりしなかったり、新能力が出てきたり、武器が変わるとどうのこうのとかね、G-セルフのデザインを発注したときに安田朗がビッシリ性能表を描いてきた。それを見たとき、ほんとゲッソリしたのね! まさにゲーム世代の感性だと。能力論ではなく、感性。スペックを作りたがって、平気で描いてくるのよ。却下しろ!って言いたかった。だけど70歳も過ぎて、若い人向けに作ろうとしているときに、こうやって描かれてきたものを全部使ってみせるくらいのことをしないと、ゲーム世代やそのもっと下の世代にバカにされるんじゃないかと思って、本当にしょうがなく使ったわけです。
――だからベルリは、超兵器の威力に一瞬動揺しますけど、比較的すぐ立ち直る。決定的な影響は受けない。
富野 まったくそうです! 僕も無責任に使っています。どうして無責任に使ったかというと、「メカものの演出をずっとやってきた、プロのトミノさんなんだから、使うことくらいはできるよ?」って示しているだけ。だけど、全然興味はないの、おジイちゃんは。
――いろいろと腑に落ちました。
富野 あんな武器の使い方をバカにしてくれて結構です。でも、「バカにできるもんならしてみろ!」とも返せるくらい、それらしく、もっともらしい描き方ですり抜けているつもりもある(笑)。……そんな話をしていたら、ちょっと話す気になったことがあります。もうひとつ、重要なことがあるんです。
――なんでしょうか? 
富野 そういう風にもっともらしく何かを描くことは、まさにアニメの、絵空事でやっているから笑い話で済んでいるんだけど、もっともらしく何かを描くことは、現実でもその場しのぎにはなってしまう。これはかなり危険なことなんです。現実の出来事でもフェイクの話が山ほど出ているわけじゃない? 流している側も、フェイクとわかってやっていたりする。そのメンタリティは、実を言うと既にフェイクではなくなってるのね。リアリズムなの。フェイクで戦争しているわけだから、フェイクを扱ったリアリズムなの。そうやってフェイクが現実に滑り込むことで、どこかの世界では人の死が正当化されてしまう。こういう物の見方は、現在とっても重要なんじゃないの?ということを考えています。
――いかにリアルに感じさせるかを意識されてきたフィクションの作り手だからこその、現実のフェイクへの視点ですね。
富野 戦争に限りませんよ。みなさん方が触っているSNS。TikTokのような動画を扱うものも含めて、誰もがデータを加工していますよね。そして加工したものを、「これが私よ!」といって表示する。僕たちは「そんなにお前のお目々はでっかいのかよ!?」とわかるけれど、そのうち、加工済みの「私」を、自分も他人もフェイクじゃないと思う世代が出てきてしまうでしょう。
――物心ついたときからそれに親しんでいると、意識は変わるかもしれませんね。
富野 そうそう。フェイクを積み重ねた先に、フェイクをフェイクと感じないメンタリティを持ってしまう可能性がある。そうした世界に、我々はついに足を踏み込んでしまった。だから『G-レコ』でトミノさんがスペック表を使ってみせただけ!というのは、アニメの中だから済んでいることなんです。そしてフェイクを使いこなし、暴走させることなく、ひとつの物語を終わらせたのは、かなり上手なことだった。それに気がつけた人は、僕のことを褒めてください(笑)。
――ますます『G-レコ』の深みを意識してしまいます。
富野 現在の世界情勢を見ていても、『G-レコ』が予見している「未来は明るくないんだよ」という話を、そろそろ真実のものとして取り上げていくようなセンスも、世の中には欲しいんだけれどね。こんな話をしながらも、絶望的になってきているなって感じがする。僕としては『G-レコ』的に、一度人類が絶滅しそうになったという前提を外さずに、未来を考えることができなくなりつつあります。早ければ30年後には、『G-レコ』が語っていることがどういうことか、世界的に認識される気がして、嫌ですね。
――一度人類が絶滅しそうにならないと『G-レコ』のような未来像は考えられないというお話をうかがっていると、この作品のクンタラという存在があらためて気になってしまいます。監督の中では、それほどの人類の危機がないと、差別されていた人たちがあのように明るく生きることはできないという感覚をお持ちなのですか?
富野 差別に関しては、どうしようもないことだという感覚があります。僕自身、個人的に考えたときに、拭いがたい偏見はあります。特定の人種に対してではなく、あらゆるものに対しての偏見です。どんなものに対してもまっさらであるか?と言われると、それは自信ないもの。それでもなんとなく自制心を持っていられるというときに、緊張感がこの程度だから済んでいる。しかし戦争が日本と他国でちょっとでも始まったら、すぐさま相手国のことを憎む人は、かんたんに増えるでしょう? 
――どうでしょうか……。あまりそう考えたくはないです。
富野 「人間ってそのくらい脆いのか?」と言いたくなる気持ちはわかるんですよ。でも僕は、現在の人類はそのくらい脆いと思う。困るのは、人間が頭でものを考えられるかぎり、差別はなくならないであろうということです。近代まで培ってきた哲学に、差別を解消するようなものはあっただろうか? あったら教えてほしい。ものを考えることで、そういうところに人は行かなかったでしょう? 例えば動物愛護運動にしても、「愛護」の対象は選ばれる。動物愛護団体に向けてそんなことをいったら、その瞬間に袋だたきにされるでしょうがね。
――難しい問題ですが、常に線引きが恣意的なところはありますよね。
富野 人間の知恵そのものが持っている偏向は何に根ざしているかを考えたときに、それの解明が僕はできないから、差別に対して言えることはあまりないんです。実際に我々はお魚にしても生物を食べているわけだし、野菜にしたって生物を食べている。そうすると菜食主義者の方が善みたいな言い方をされると、「ちょっと待て」と言いたくなる。でもそれを正当に言い切れない知恵の問題はどう考えたらいいの?と言いたくなってもしまう。知恵が中途半端に進化してきた問題は、ものすごく大きい。中世以前のものの考え方でストップしていた方が、人生は幸せだったのかもしれないと思ってしまうときもあります……という風な話をすると延々と続くので、今日はこのあたりでやめておきます(笑)。
――はい(笑)。といいつつ、つまりは『G-レコ』くらい果てしない未来まで行かなければ差別は根本的には解消されない、それくらい、人間の知恵そのものに根ざしたものであり、富野監督の差別に関する考えが何周もした上で、あのクンタラという設定は生み出されていたんですね。
富野 劇中でもクンタラというのは2、3回しか出しませんでした。初期設定を考えていた段階では、クンタラという集団を具体的に出そうと思わないでもなかったんだけど、今みたいな話に絶対滑り込むのね。これはいくらなんでもめんどくさいし、子ども向けのアニメにはならない。絶対に設定から生じる物語が自家中毒を起こしてしまうから、そこからは逃げました。マスク(ルイン・リー)の描写止まりにした。そういう言い方になりますね。
 

劇場版『Gのレコンギスタ』より
劇場版『Gのレコンギスタ』より(C)創通・サンライズ

――どの角度から切り込んでも奥深い作品ですね、『G-レコ』は。その劇場版全5部作の作業を終えられたことで、富野監督自身の今後のクリエイティブにつながりそうな、何か創作上の新たな発見はありましたか?
富野 発見はありませんでした。どちらかというと、完結したことで余分なこと、「もっとこうしたかった!」という何かを思いつけなかったという意味では、この5部作ではまあ、それなりの仕事をできたんじゃないかと思っています。それこそTV版をやっておきながら、それから5年以上掛けて映画版を作り直す機会を手に入れさせてくださったサンライズと、そのバックにあるバンダイナムコも含めて、我慢してくれて本当にありがたいと思っています。これが足場になって、次のところに行けるかもしれない。
――おお。
富野 ……と思っている部分はある。でも、今の自分にそれができるかというと、さすがに80歳という年齢は20年前とは違うので、そう簡単に行けるとは思いません(笑)。あと、僕は真っ白な状態から企画・制作することがまったくできない人間なわけです。巨大ロボットありきで企画ができあがっていく。どういうことかというと、巨大ロボットが登場すると企画の半分はそれで埋まっちゃうのよ。そして残りの半分であと何ができるかというと、主人公とサブの恋愛話。これまではそれだけ作れば済んじゃっていたものが、今回の『G-レコ』で、言ってしまえばそういうジャンルの中で自分がやれることは全部やってしまった。この現実的な条件のあるジャンルでやれる新規のものがなく、真っ白な状態から、まったく条件のない状態で新規の企画を作ることができない自分もきちんとわかってしまった。だからこの2年間は、そんな自分と向き合う機会でもあったんです。展覧会「富野由悠季の世界」を挟みながらもね。
――素晴らしい展示でしたね、あれは。
富野 その「富野由悠季の世界」をやったときに、勘が働いたんですよ。「嘘でもいいから何か企画を持っていると、この場で開示することで、作れるようにするしかない」と。そこから『ヒミコヤマト』というタイトルが出てきた。こうしてタイトルを世に出してしまったことで、構造的に巨大ロボットものを作るときと同じ条件ができた。
――ああ、タイトルが先にあることで、ご自分が考えを前に進めるための思考の制約ができたわけですか。
富野 そう思った。ところが、巨大ロボットものと根本的に違ったのは、『ヒミコヤマト』って僕が作ったタイトルなわけよ。自分が作ったタイトルだから、そこに答えがあるかどうかわからないわけだ(笑)。
――うーむ……答えがないかもしれない、企画の枷をご自分で作ってしまわれたんですか。
富野 本当にそれで、今は困っています。でも「ヒミコ(卑弥呼)」と「ヤマト(大和)」というふたつの言葉のあいだの距離が、ようやくこの一か月くらいで繋がりました。この春……3月か4月くらいまで、ものすごい離れていたの。でもこの一か月くらいで、一緒になっちゃった。そういう資料を見つけたんです。
――それは劇的な。
富野 韓国出身の研究者が邪馬台国の本を書いていて、「ヤマタイコク」って我々が教えられた呼び方があるじゃない? あれは古代韓国語で読むと、「ヤマトクニ」と読むんですって。「台」という字は「ト」という発音だったそう。だから「ヤマタイ(邪馬台)」は、実は「ヤマト(邪馬台)」なのだ……そんな説があると知ったんです。そして僕は、自分の企画ではその説を取ると決めました。ただ、そうやってヒミコ(卑弥呼)とヤマト(邪馬台)が一緒になると、今度はこれまで「ヤマト(大和)」と呼んできたものが、どういう発音の、どういう存在なのかが問題になる。
――ふたつの「ヤマト」にどう整合性をとるか、ですか。
富野 それで半月くらい前にようやく見つけたのが、卑弥呼はひとりじゃなかった、あくまで北九州近辺で、今でいう県知事レベルの権力を持った統治者のひとりでしかなかったという資料なんです。卑弥呼と呼ばれる存在は何人もいて、その中のひとりの弟が、どうも須佐之男命だったらしいとわかったんです。どうも北九州に住めないくらいの暴れん坊で、追放したらしい。そのことを実名ではっきり書くと問題があるので、昔話を歴史としてまとめる際に、名前を変えて神話扱いにしてしまった。しかし実際は、須佐之男命は出雲あたりでがんばって新しく国を作ったらしい。国といっても、これもあくまで今でいう県のレベルのものね。それを北九州にいる卑弥呼たちが、「海の向こうにはもっといい土地があるんだ!」と見つけたときに、あらためて「ヤマト(大和)」という国名を作ったのかもしれない……という仮説まで、ようやく来ました! というわけで、ここから『ヒミコヤマト』を作ります(笑)。
――壮大です。ワクワクしてきました。
富野 そう? こういうことがわかっても、あっさり『ヒミコヤマト』は作れないと思うけど。そんな時代劇、誰も見てくれるわけがない。だからそこに戦艦大和の復活をくっつけて、『宇宙戦艦ヤマト』を潰そうという外圧を入れようと思っているわけ。そういうことをやらないと、トミノさんは企画を作れないのよ(笑)。で、ここからなんとか戦艦大和の復活まで話を持っていくのが、とんでもなく難しいところで。もともと10年前にこの企画の原型を考えたときは、実はまずそこから考えたのね。
――戦艦大和の復活ありきで、古代史を結びつける企画だったんですか。
富野 そう。もともとは、それで卑弥呼を調べざるを得なくなったという流れでした。何を調べたかというと、卑弥呼の人格論。卑弥呼という人が、何を考えた人だったのか。彼女は魏の国の使節を受け入れたということは、当時の中国の知識を教わったはず。そうすると、彼女が何を知っているかわかる?
――恥ずかしながら、わかりません。
富野 孔子と孟子のことを知っていたはずなんです。つまりは規範論、道徳論、倫理……国の統治の知識を、朝鮮半島経由の中国語で学んでいたかもしれない。そういうところから卑弥呼の人格論が見えてきて、さらに北九州の「ヤマト(邪馬台)」と出雲の「ヤマト(大和)」も繋がり、邪馬台国の九州説・畿内説に答えも出せた。両方に「ヤマト(邪馬台・大和)」と呼ばれる、姉と弟が治める国があったんだよ……ってことになる(笑)。
――おお……。
富野 で、そういう卑弥呼が、なんで戦艦大和を復活させるのか? その理由が、まだよくわからない。僕が戦艦大和を飛ばしたいだけの話だから(笑)。はっきり言えるのは、そうやって北九州から畿内に行くまでの歴史を描くことで、邪馬台国論争を終わらせる。そういう魂胆があり、さらに卑弥呼は、『ヒミコヤマト』は福島まで行くの。なんで福島まで行くの?という理由は、『ヒミコヤマト』というアニメが完成したら、楽しみに見てください(笑)。……では、取材時間を大幅にオーバーしているようだし、今日はここまで! 
――ありがとうございました!! 

【写真:疋田千里/取材・文:前田久】

■劇場版『Gのレコンギスタ Ⅳ』「激闘に叫ぶ愛」
■劇場版『Gのレコンギスタ Ⅴ』「死線を越えて」
上映中

リンク:『Gのレコンギスタ』公式サイト
    公式Twitter・@gundam_reco

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